春秋名臣列伝 (覚書として)

宮城谷昌光著 文藝春秋
☆☆☆★★★

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図書館で見かけて即効借りて読んでみた1冊。さっくりと読めると思ったら、これが以外と難しくて読み終わるのに結構時間を要しました。
ひとえに、私に歴史背景の知識が欠如しているからなのですが、著名な人物以外は読み終わっても頭に根付いていないので、簡単にメモとして記録だけしておきます。

春秋戦国時代の物語が私に与えてくれるあれこれは、私の後半人生にとってとても大切なものだ・・とあらためて感じさせてくれた1冊です。取り上げられている名臣は20人。

衛の石碏(せきさく)

衛は、周の始祖である文王の九男の康叔に封じらえた姫姓の国。小国ながら中原の中心地に位置し、秦により滅亡させられるまで、周とともに800年近く存続した国なのね。(姫姓とは周王朝の姓です。)

衛の首都名は「朝歌」。この美しい名前は、何と悪の権化とされている商の紂王が名付けたのだそうです。

衛って言うと、初心者の私には孔子が訪れた際の南子(霊公の妻)のエピソードしか頭に浮かんできませんが、荘公の時代に仕えていた賢臣の石碏のエピソードがしょっぱなに語られます。

荘公の妻の荘姜が子を産まなかったため、第二夫人の子供を荘姜の養子とし育てる事になった。息子の完は、このまま行けば世継ぎとなり何の問題も起きないはずであったが、荘公が愛妾の息子を溺愛しており、どちらを太子にするか迷っているうちに亡くなってしまう。

その後の王位をめぐるゴタゴタの中で、石碏の息子が謀反を起こした愛妾の息子に肩入れをしてしまい、命が危うくなった息子は父親に命乞いをするが、彼は息子を陥れ愛妾の公子とともに処刑させてしまいます。

これは、国に忠義を果たすために、親子の情をも犠牲にした姿を讃えたエピソードで、「大義、親を滅す」とたたえられたそうです。

鄭の祭足(祭仲)

鄭は西周時代に封じられた国で、やはり姫姓の国。

鄭の荘公は春秋時代初期の覇者であり、名君として知られていますが、逆子で産まれたため、母親から忌み嫌われていた。母親は弟の方を愛していたため、弟を王位につかせようと画策。自分を愛してくれない母親を深く慕っていた荘公でしたが、結局弟を追放してしまいます。

そして幽閉されていた母親と地下で再会するエピソードが有名で、これはドラマの「東周列国・春秋篇」でも見ました。

鄭の荘公は唐国強さんが演じてました!また見たいな~。

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さて、荘公には祭足という賢臣がおり様々な助言を行ってきたが、荘公の死後も5人の君主に仕える事となる。途中で発生した世継ぎにからむ混乱も乗り越え、鄭の安定を保ち続ける。

「権」(力)とは何であるか?それは結局は善を保つ事なのである。「権」を行使するのは国の存続に関わった場合のみ。「権」には「道」があり、人を概して権を行ってはならない。人を殺して自分が生き残る様な事は君子はしないのである。(「公羊伝」より祭仲への評価、要約)

斉の管夷吾(管仲)

管仲!!中国史上最高の宰相と謳わてる人。書いてると長くなるし、有名なので省きます!

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晋の士蔿(しい) 子輿(しよ)


晋も姫姓の国ですが、春秋末期に韓・魏・趙(三晋)に分裂し晋は滅亡します。

士蔿は晋の発展の礎を築いた政治家。晋では昔、昭侯が分封を行ったため、宗家に対立する大きな勢力がうまれてしまい、内患となっていた。宗家をおびやかす公族を滅ぼして当時の王であった献公と晋の国力を増大させたのが士蔿で、彼は大変な謀略家です。

しかしその後、献公は美貌の驪姫(りき)を溺愛し、世継ぎ問題で内紛が起きてしまいます。士蔿は命が危ぶまれる太子の申生に亡命を進めますがそれを拒絶した申生は驪姫の毒牙にかかります。

そして逃げ出した2人の太子、次男の重耳、三男の夷吾! to be continued !! (エンディングテーマ曲)

士蔿は「一つの国に三人の君主がいる。私は誰に仕えればよいのか?」と嘆きながらこの世を去ります。

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秦の百里奚(五羖大夫)

5枚の羊の皮と交換された下僕はやがて秦の宰相に!有名なので省きます!

魯の臧孫達(ぞうそんたつ)臧哀伯(ぞうあいはく)

魯の恵公から荘公まで4代にわたって使えた賢臣。宋から送られた不義の賄賂品を大廟に設置した桓公を諌めるも聞き入れられず。しかしこのエピを耳にした周の内史は「臧孫達の子孫は魯で栄えるであろう」と予言した。

魯の臧孫辰(ぞうそんしん)臧文仲(ぞうぶんちゅう)

臧孫達の孫。彼も祖父同様に長寿で長きにわたって執政の位にあった。魯は当時、斉と険悪な関係にあり、諸侯が集まる会合に欠席を続けていたが、臧孫辰は外交関係が悪化しない様に慎重な配慮をしていたらしい。でも、孔子は彼について悪口を書いてるみたいね。

晋の狐偃(こえん) 子犯(しはん)

重耳の舅。亡命しながらも命を狙われ続ける重耳と、同行している家臣団を19年にわたって導いてきた忠臣。そして重耳は長い逃亡生活の果てに帰国し、62歳にて君主(文公)となりやがて覇者となります。

晋の郤缺(げきけつ)郤成子(げきせいし)

父親が文公の暗殺に関わっていたため、都から逃れ山奥でひっそりと生活していたが、文公の臣である胥臣に見出される。文公から許しを得た郤缺は、文公亡きあとの晋を支え続けた忠臣となります。権勢を誇っていた趙盾を嫌い秦に亡命していた稀代の兵法家、士会を秦から連れ戻し、彼とともに晋の執政を司っていきます。

楚の蔿艾猟(いがいりょう)孫叔敖(そんしゅくごう)

春秋中期の名将と言えば、前述した晋の士会と言う事らしいのですが、楚の荘王に仕えていた蔿賈も勝るとも劣らぬ名将であったが、国内の勢力争いの中で、荘王に捨て駒にされ殺される。その蔿賈の息子が蔿艾猟です。父親の死後、彼は荘王から令尹に任ぜられる。恐らくは愛臣であった蔿賈をやむなく捨て駒にしてしまった事への償いであったのであろう抜擢であった。

彼は軍事ではなく内政で功を上げた。彼は荘王に荒涼とした地を所望する。楚では二代で領地を没収されるのが通例だが、この地は全く使えない土地だったので、その後九代まで所有を許されたと言う。

楚の荘王は、「三年鳴かず飛ばず」の王です。

楚と晋の屈巫(くつふ) (巫臣・子霊)

屈原と同じ屈氏で、屈氏は楚の名家。楚が陳を攻めた時に捉えられた美貌の夏姫に心を奪われた屈巫は、荘王が娶ろうとしたのを諦めさせるも、他の者に奪われてしまう。夏姫を深く愛する屈巫は、彼女を祖国の鄭に逃がすのだった。

屈巫は忠臣であり、名君であった荘王が存命の間は楚にとどまり続けた。荘王の死後、彼は夏姫を娶り、晋へと亡命するのであった。

夏姫に未練のあった者や、屈巫に恨みを抱いていた者達が、屈巫の一族を根絶やしにしてしまう。屈巫は彼らに復讐するために、晋を何度も楚に攻め入らせ策を弄し彼らを疲弊させ破滅させてしまうのであった。

晋の祁奚(きけい)

祁奚は晋の大夫。彼が老齢の為に引退を申し出た時、君主の哀公が後任者は誰が良いかと尋ねた。

祁奚「解狐が良いと思います。」

哀公「そなたの仇ではないか。」

祁奚「君は後任をお問いになった。仇は誰かとお問いになったわけではありますまい。」

しかし、解狐が着任前に急死してしまい、哀公は再び後任を訪ねた。

祁奚「午が良いでしょう。」

哀公「そなたの息子ではないか。」

祁奚「君は後任にふさわしい者をお問いになった。我が子の名前をお問いになったわけではありますまい。」

~その仇を称げて諂いとなさず、その子を立てて比となさず。(春秋左氏伝より)

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晋の師曠(しこう)(子野)

晋の楽師で盲人であったが、優れた見識を持っていたため、平公のアドバイザーとなる。晋の平公は並み以下の君主であり、若くして即位したせいもありいつ臣下から誅殺されてもおかしくない器だったらしいのですが、若年の頃は晋随一の英才と言われた叔向に補佐され、壮年になってからは師曠の助言を得て、天寿をまっとうした幸せな君主です。

暗愚と言われる平公であったが、辛口で度々諌めてくる師曠を決して遠ざけたりはしなかった。

鄭の国僑(こっきょう)(子産・子美)

鄭の名君である簡公は、当時のスーパーエリートであった子産とともに、鄭の改革に着手する。鄭は国難続きで、それを無事に支え続けてきた手腕は称賛に値するものであった。

子産は、中国史上はじめて成文法を作り一般公開した人物で、それにより民ははじめて法の内容を知る事が出来た。これは貴族にははなはだ都合の悪い事で子産は痛烈に非難される。人民の側に立った政治を行えたのは、春秋時代では子産ただ一人だったそうです。

凄いな~。子産は宮城谷氏の小説読もうかな~~。

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宋の楽喜(がくき)(子罕)(しかん)

宋の平公に仕えた名臣。宋で起きた大火災をうまく沈下させたりと災害管理能力が凄かったり、色々なエピソードがあるのですが、以下のやりとりで最も有名なのだそうです。

ある宋人が美しい玉を手に入れたので、尊敬する子罕に届けに来た。

子罕 「いらぬ」

宋人 「何故ですか?偽物じゃありません本物の宝ですよ。プロに確認したから確かです。」

子罕 「私は貪らない事を宝としている。あなたは玉を宝としている。私が玉を受け取るとお互いに宝を失う事になる。お互いに宝を持っている方が良いではないか。」

斉の晏嬰(あんえい)(晏子・晏平仲)

有名なので省きます。桃1個で3人の勇将を殺した人です。「晏子春秋」が読みたいな~。

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呉の季札(きさつ)(延稜の季子)

有名なので省きます。呉越戦争もの見ると出てきますよ。呉の王位継承者ですが、何度も辞退している知識人。呉の良心として民の信頼を得てる御仁です。

衛の蘧瑗(きょえん)(蘧伯玉)

献公の時代、衛は国内情勢が悪化しており、献公は斉に亡命していた。帰国出来たのは12年後。衛の知識人の代表格であった蘧伯玉は、道を外れてしまった政道に関わろうとはしなかった。

孔子の言葉

「君子なるかな蘧伯玉。邦に道あれば即ち仕え、邦に道なければ即ち巻きてこれを懐にすべし。」

その後衛で宰相となった蘧伯玉のもとを、孔子の弟子の子貢が訪れ治国の法を訪ねた時の答え。

「治めないという事を旨として治めます」

血液型ABっぽい感じで、君子と言っても様々なタイプがいるものだ・・と思わせてくれる人物です。

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そして最後の2人が、呉の伍子胥と孫武(孫子)ですが、超有名なので省きます。

次は「戦国名臣列伝」を読もうと思っています。この記事5時間くらいかかったけど作って良かったです。

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この記事へのコメント

セレンディピティ
2018年01月20日 18:17
こんにちは。
好きな世界の本は、喜びを与えてくれますね。
最近あまり長い本、難しい本は途中でいったんあきらめることも多くなってきましたが、縁があればまたチャンスがあるかな?と楽観的にとらえています。
時間がかかっても、記事にしておくと、自分にとっての勉強になるし、頭の中も整理されますよね。
記録しておくことの大切さをこの年になってしみじみとかみしめています。^^
ごみつ
2018年01月20日 19:47
セレンディピティ さん

こんばんは。
コメント有難うございます。

この本、読むには読んだのですが、全然頭に入ってなくて、復習がてらまとめてみましたが、5時間くらいかかってしまいました。(;'∀')
でも、そのおかげで、この記事を読めば思い出すので、がんばって良かったと思います。(;^ω^)

この本のシリーズ、まだ戦国と楚漢があるので、また5時間コースになるかもしれません。(-_-;)

ホント、年とともに記憶力がなくなってきますよね~。

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